apricotbrain’s blog

スピリチュアルヒーラーの日常

幼帝への思いが子供を守る 水天宮

東京日本橋 水天宮。
安産の神様として有名です。
 
参拝した当日は平日の午前に関わらずにぎわっていました。
少子化といわれてずいぶん立ちますが
ここだけ見ると別世界のようです
 
御祭神は天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)
その母の建礼門院
 
水天宮の名はもとは水天。
ゾロアスター教の始源神であり、最高神でした。
始源神であるところから天之御中主大神と解釈されています。
 
そして、水天を祀る意味は
壇ノ浦の戦いで破れた兵士とともに
入水した安徳天皇が水天皇と呼ばれ水天と同じとされました。
 
水天宮は福岡県久留米にありますが
建礼門院に使えた局伊勢が
安徳天皇と平家一門を慰霊からはじまっています。
伊勢は安徳天皇を抱いて入水しますが
伊勢のみ源氏に生け捕られます。
 
わずか6歳で亡くなった天皇への思いが
安産、子育ての神としていまに続いています
 
由緒
天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)のご神徳を受けた有馬家
 赤松家を祖とする摂津有馬家は、応仁の乱の引き金となった
嘉吉元(1441)年の嘉吉の乱の後に有馬の郷(現神戸市北区)に落ち延びて隠れ住み、その土地から姓を取って有馬と名乗りました。

 後年、有馬家は太閤秀吉に見出され、中央に戻してもらいます。その幸運を授けて下さった有間(有馬)神社のご祭神である天御中主大神のご神徳を代々忘れぬよう、
有間神社の社紋である「三つ巴」を有馬家の家紋としました。
 現在でも、当主にのみ三つ巴の紋を付けることが許されております。
久留米藩へ入封、水天宮社殿を造営
 元和6(1620)年、大名家としての有馬家(有馬豊氏公)は、久留米藩二十一万石を拝領しました。
 第二代藩主の有馬忠頼公は、当時「尼御前大明神」と尊称されていた水天宮に対して、城下の筑後川に臨む広大な土地を寄進し、社殿を造営しました。
水天宮を江戸へ勧請かんじょう
 敬神の念は代々の当主に受け継がれ、文政元年(1818)、第九代藩主有馬頼徳公は、参勤交代の折に江戸で水天宮を親しくお参りできるよう、芝赤羽根橋の上屋敷内へ国元久留米より御分霊を勧請致しました。

 爾来、水天宮は当主と共にあり、明治4年には青山、翌5年には日本橋蛎殻町へと移転致しました。
 その後、関東大震災をはじめ数多の苦難を乗り越え、現在に至っております。


「情け有馬の水天宮」~深い温情~
 文政元年、久留米藩有馬家上屋敷内に祀られていた水天宮は、人々の信仰が篤く、塀越しにお賽銭を投げる人が後を絶たちませんでした。時の藩主は毎月5日に限り、お屋敷の門を開き、人々のお参りを許しました。
 そのことから有馬家と「情け深い」ことを掛けて、「なさけありまの水天宮」という洒落が江戸っ子たちの流行語となりました。

「湯も水も火の見も有馬の名が高し」~日本一と称された火の見櫓~
 幕府により大名火消しを命ぜられた第八代藩主・有馬頼貴(よりたか)公は当時としては異例の高さである三丈(約9m)にも及ぶ火の見櫓を組みました。
 有馬温泉・水天宮・火の見櫓を掛けて「湯も水も火の見も有馬の名が高し」という言葉がうまれました。