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スピリチュアルヒーラーの日常

皇居 天神濠に名を残す 平河八幡宮

江戸時代には大名屋敷が立ち並んだ一角に
平河天満宮があります。

 
太田道灌江戸城の守護として日枝神社などと
ともに造営したと考えられています。
 
徳川家入府前は城内にあり
現在も皇居の
平河門奥に天神濠と梅林があり
そのあたりにあったと推測されます
 
創建は文明10年(1478年)江戸平河城城主太田道灌が、菅原道真霊夢により城内の梅林坂上に当社を創建した。
天正18年(1590年)徳川家康が江戸入城後、本丸築造に当たり上平河村に奉遷した。
さらに慶長11年(1606年)に、徳川秀忠江戸城増築に伴い現在地に奉遷された。
紀州尾張両徳川家、彦根藩井伊家の祈願所になり、新年の賀礼には、宮司は将軍に単独拝謁できる格式の待遇を受けていた。

蘭学者高野長英の大観堂学塾は平河天満宮のすぐ裏手にあったので、高野長英はよく参拝に訪れた。
また、江戸時代の盲目の国学者塙保己一はなわほきいち)も平河天満宮の熱心な信者で、
平河天満宮に祈願しながら『群書類従』を完成させた。
塙保己一の住まいの和学講習所は、現在の千代田区三番町24にあった。

火災による十数度の類焼を被っており、
1923年(大正12年)の関東大震災
1945年(昭和20年)の戦災ではほとんどの施設を焼失していた。
 
戦後、仮社殿にて祭祀を執り行っていたが、
1969年(昭和44年)に本殿が再建された。
学問に心を寄せる人々は、古来より深く信仰し、
目高い盲目の学者塙保己一蘭学者高野長英等の逸話は、今日にも伝えられている。
現在も学問特に医学や芸能、商売繫盛の祈願者が多くいる。
銅鳥居の丸は
機銃掃射の痕
御祭神は菅原道真